「ことばどおり」が指しているもの。

ASDの言うことは言葉通りだ、というフレーズを聞いたことがある人は多いと思います。ローコンテクスト(=前提となる事情が少ない)はずだと自分が思っているから実はハイコンテクストだったとしても察してよね、という意味ではかならずしもないんだ、これ、と、気づいたのでシェアさせてください。

 

 

言葉通りだ、とわざわざことわるのは、誤解されたくない、という意味です。

 

 

たとえば、わたしがAさんに何かしら損害を与えたとしましょう。

謝罪はします。自分が損害を与えたと自覚している以上、その自覚について宣言し、それに続く対策などを聞き入れてもらうために、まずは相手の、感情的な準備が必要である、そのために必要なのが謝罪であると今は理解しています。

そのうえで、たとえば再発予防策を述べます。再発予防策がとっさに思い浮かばなければ、これから考える旨を告げます。

ここまでは当然のプロセスかと思います。問題はここからです。

 

 

「ぜひともAさんにダメージを与えたいと思ってわざわざやったことではありません」このように述べて、ことばどおり受け取ってもらえ「ない」ことが、しばしばあります。

 

 

わたしは、ぜひとも他人にダメージを与えたいと思って行動することはまずありません。そういう動機で行動したことは、ないと思います。ここ、誤解されたくないんです。

「ぜひともAさんにダメージを与えたいと思って、わざわざやったことではありません」これを信じてほしいのです。お願いしたいのはこれだけです。これは、だから許してほしいとか、情状酌量を勝ち取りたいとか、減刑してほしいとか、対策を考えたくないだとかでは決してありません。ぜひともAさんにダメージを与えようとして、わざわざやった場合と同じだけの罰を受ける覚悟はあります。やったことに見合う償いをする準備はあります。そこじゃないんです。

 

「ぜひともAさんにダメージを与えたいと思って、わざわざやった」と思われるのが、ものすごく居心地悪いんです。その、(わたしが思ってもいない)「ぜひとも」「わざわざ」を読み込まれることだけは避けたいんです。それはあまりに居心地が悪い。正確に理解してほしい。言っていることをそのまま、受け取ってほしい。

 

「ぜひともAさんにダメージを与えたいと思って、わざわざやったことではありません」というのは、それだけの意味です。それ以上でもそれ以下でもない。言葉通りです。前提となるかもしれない様々な事実とは関係がない、ローコンテクストな文章であるとわたしは思います。

 

それは言い訳でしょうか。そうであるならば、(わざわざ傷つけようとして、では決してない、とわたし自身が自分の行動について判断・評価してるにもかかわらず)「わざわざ傷つけようとして」やりました、と認めることを求められているということなりはしませんか。それは、わたしから見れば事実誤認です。

故意ではないというのは、わたし自身が決めていいのではないですか。状況証拠?から、他人が推定するものでは、少なくとも第一義的には、ないのではないでしょうか。それとも、意図や故意というものは、他人が決めるものであり、本人の「つもり」とは、関係ないことばなのでしょうか。少なくとも辞書には、「本人の」意図であると書かれています。それは建前ですか。わたしは、その(故意ではない、しかし故意だと他人から推定されているらしいという)誤解も誤解ではないとして、相手の理解(少なくともわたしから見れば誤解ですけど)が正しいとして、決して「わざわざ、Aさんに損害を与えようとして」やったわけではないにもかかわらず、自分が「わざわざ、Aさんに損害を与えようとして」それをやったのだと、「認める」ことが要請されているのでしょうか。

 

 

言葉通り、というのはそれだけのことです。

「ぜひともAさんにダメージを与えたいと思って、わざわざやったことではありません」それだけです。ここに、共有されていない、わたしにしかわからない前提は、わたしが考える限り、含まれないと思います。

 

繰り返しになりますけれど、「ぜひともAさんにダメージを与えたいと思って、わざわざやった」と思われるのが、ものすごく居心地悪い。その、「ぜひとも」「わざわざ」を読み込まれることだけは避けたい。罰や処遇などは、故意であった場合と同じで構わない。ただ、その「故意」を読み込まれたくない。ことばどおりなので、わたしの述べたことをそのまま理解してほしい。それだけです。

 

どうでしょう。この意味での「言葉通り」、ASD全員とはもちろんいいませんけれど、でも、ASDの人に、少なくともときどきは認められると思います。やはり、理解されることはないのでしょうか。理解されないとしたら、わたしは、「相手にダメージを与えようと思って」、「わざわざ」何かをして、その結果「成功し」相手に損害を与えた、と思われることを、当然だと受け取らねばならないのでしょうか。

 

ほんとそれだけなんです。ことばどおり受け取っていただければ、さいわいです。

 

その後ツイッターで、故意かどうかは他人が決めるというご意見もいただきました。もしもそうだとすれば、わたしの定義が間違っていたということですから、自分の中の定義を刷新します。それはそれで、しんどいですけれど、対処はできる気がします。ことばにこだわるのは特性ではありますけれど、定義さえ刷新すればなんとかなりますから。

そのうえで、もし仮に何かの拍子に「わざわざ」「相手に損害を与えようと思って」やったことではないと(わたしからみれば)わかってくれるひとがいたとしたら、その稀有な状況に感謝する、そのほうが確かに、トラブルも減るでしょうし、だれも傷つかない、かな。