生まれつきとその後の環境とASD「らしさ」。

先日、ASDの人と会う機会がありました。患者ではない同類(ASDの人)と会うというのは、なかなかない機会ではあります。そこで思ったこと。

 

その人のASD関連トラブルは、わたしのそれとあまり変わらないように思えました。トラブルの種類も、頻度も。わたしのほうが先にASDに気づいたぶん、修正の機会は多かったかな、でも誤差範囲かと思います。

ただ、あれ? と思ったのが、そのASD「らしさ」の由来でした。これ、後天的にASDらしさが強まったのでは? と思ったわけですね。

f:id:asph29:20200127064452p:plain

 

たとえば、周りと齟齬をきたしかねないレベルで論理的であり、忖度しないというところ。業務の効率化を断行する際に、一部の感情的な意見(伝統なのに、とか、わたしたちが作り上げてきたシステムなのに、とか)を聞き入れないとかですね。ASDらしいエピソードではありますし、わたしがそれをやればまあ99%ASD由来の問題でしょう、しかし、です。

ASDでなくても、論理的な人はいる

・「仕事の場に情緒を持ち込むべきではない」と考える人もいる

は当然として、

・他人の感情を考慮に入れないという戦略で生きてきた人もいる

という可能性もあるんじゃないかなと。

 

他人の感情を考慮に入れないというのは、他人の感情は感じ取りつつも、それをもとに行動しないということですね。わたしの、そもそも感じ取れない、とはまったく別です。自分が、そもそも感じ取れない件で困っているため、他人の感情を感じ取りつつそれを活かさないなんてことにメリットがあるとは考えていませんでした。でも、考えてみれば、以下のような状況がありえるわけです:

・敏感すぎるので、シャットアウトしたほうが楽

・悪い感情に囲まれていたので、シャットアウトしたほうが楽

・他人の感情を考慮に入れて悪い結果に終わることが多すぎた

まだまだあるでしょうけれど、とりあえずこの3つ。最初の2つについては、典型は虐待でしょう。最後の1つについては、最近話題のHSPかもしれませんね。

 

そこまで考えると、たとえば下のグラフみたいなことがあり得ると考えられます。グラフの高さが「ASDらしさ」とお考えください。青が生まれつき要因、オレンジが環境要因です。

f:id:asph29:20200127065348p:plain

生まれつきのASDレベル(?)は、左の人のほうが高いとして、現在の行動のASDらしさが、右の人のほうが高い、みたいなことって、ありうるかもしれません。

 

なんとなく、ASDらしさは、社会生活を送るにつれ多かれ少なかれ減るものだと思っていたんです。トラブルが多いから学習するのかなって。でも、もともとのASDレベルがゼロの場合はわかんないですけど、ASDレベル/ASDらしさが、環境要因によって「増える」人もいるんだろうなというのが、いまの考えです。

 

生まれつきのASDらしさと、環境要因で増えたり減ったりするASDらしさは、完全に一致はしないと思います。また、生まれつきのASDらしさを厳密に測定する必要があるのか、現在のASD関連トラブルさえ測定できればいいのかもいまのところ結論は出せていません。ただ、いまみえているASDらしさ=うまれつき、と考えるのは、ちょっと無邪気すぎる見方なんだろうな、と思った次第です。