それは失礼だ! についての考察。

「目上に失礼」って怒られることはよくあるんです。そのいっぽうで、「目下に平等」と言われることもあります。どっちも、コメントに値する、つまり、ふつうではない、ってことですよね。100%ふつうであれば、コメントはしないわけですから。

 

ここでちょっとだけ注目したいのが、「目下に平等」です。たとえば、掃除のおばさんに丁寧にあいさつする率は、ASDの人のほうが高いと思うんです。差別に敏感というわけではないと思います。どういう「社会的」立場であっても同じように接しているだけで。というかそこを区別できない。

 

「掃除の人も、わたしが苦手とする掃除という仕事についてるわけだし、わたしよりすぐれているところはあきらかにあるよね、というか、見えないところでわたしより上なこともあるかもしれないし」

わたしも最近は多数派の人の考えが少し理解できるようになりましたから、ふだんは言わないことにしていますけれど、こんな感じです。世の中のすべての人がそう考えていると信じていました。いや、信じていたというか、あまりに当然であるのでこれは世界どこでもふつうに通用する真理、たとえば人間には酸素が必要だレベルの「当然」なので、考えもしなかったというのが近いかもしれません。

 

いやまあそれはそうだけど、と言われそうな気がします。言われたこともあります。ここで抜けているのは何でしょう。

 

…… いまここで問題になる社会的立場が、多数派の中では優先されやすいと考えます。病院という場では、医者のほうが(社会的立場に限っていえば)掃除の人より「上」ということになるのでしょう。いまわたしの中では、「そうはいってもわたしにできないことを業務としてやっている人はある意味でわたしより上だし医者のほうが上だというのは失礼すぎるから、たんにブログの中であるといっても書きたくない」と葛藤しております。しかし、たぶん、「よのなか」はそんなふうに動いている。掃除の人も、「医者のほうが上だなんて失礼な!」と怒るひとはまれでしょう。

 

この「社会的立場」が「見えない」ことが、ASDのわたしが起こすトラブルの背景にはあるように思うのです。どうなんだろう、それが見えるASDの人もいるかもしれません、けれど。でも、「敬語は完璧なのに敬意が感じられない」というのは、俗に言う「アスペあるある」ですから、やっぱり、ASD関連の問題かなあ。それに関しては、

 

「敬語は完璧なのに敬意が感じられない、っていわれた」

「敬意を持っているのか」

「そりゃあ、わたしより治療が上手だとかすばらしい論文を書いたとかであれば」

「そうじゃなくて、目上だから自動的に敬意を持つのか」

「いやあ」

「実在しない敬意を感じられないのは当然だろう」

「なんと」

という会話が、昔ありました。