ASDの子どもが、ままごととかごっこ遊びとかを苦手とする件について。

自閉症の現象学 第5章です。第5章は、視線触発がないところでの自閉症児の発達と、どうやったって知覚とか空想とかできない「現実」についてです。現実は、第4章でもキーワードになっていました。

 

 

まず、第4章の続きから(第4章と第5章にまたがっているので、話の流れと長さの都合でこっちに移しました)

定型発達のこどもでは、抱っこは重要です。抱っこでは、こどもと母親は見つめ合います。つまり視線触発は働いています。で、母親(養育者ですけど、とりあえず母親で代表します)はこどもの動きや感情などを感じ取りそれとシンクロします。こどもは、抱っこされている件について拒否せず、母親に身を委ねています。こうして、こどもは自分自身の身体を実感する(自己触発)と同時に、視線触発により「見つめられる私」として、自己を発達させます。この、自己触発と視線触発が同時であるところがポイントです。

この一方で、自閉症児の場合、抱っこがうまくいきません。そもそも目が合いませんし、こどもは母親に身体をゆだねない。こどもから見ると、抱っこは、他人によって予測不可能な動きを強要されているのに近い体験です。これでは、こどもは自分の身体を実感するどころではありません。自己触発も視線触発も、起きていないということになります。

そうはいっても自閉症児にも、自己触発は起こります。常同運動で、繰り返し五感を刺激することで、自分自身の身体を実感するわけです。これは、自分一人でやっていることで、他人は関わりません。つまり、視線触発とは関係ない。自己触発と視線触発が別々に起こることが、自閉症児の発達のポイントになります。ちなみに、視線触発が起こっていない段階では、自分と自分以外の区別はありません。なので、自分の身体は実感しつつ、これが自分! という意識はまだ育っていないということになります。

 

 

さて。ままごととかごっこ遊びとか、わたしの子供時代を含む自閉症児が苦手な遊びについてです。

ここでのポイントは、石だとわかっている(知覚)と同時に、その石をケーキとみなせる(空想)ことです。自分だとわかっている(知覚)と同時に、自分をお母さんだとみなせる(空想)ことです。知覚と空想は、同時に起こりつつ、別々だと認識もされています。これを、知覚的空想といいます。

第4章で、知覚(目の前にあるもの)と空想(頭の中にあるもの、イメージといってもいいですね)の差は、どうやったってみえないもの(一瞬目の前から消えたとか、裏側とか)の存在を認めるかどうか、でした。そして、どうやったって知覚も想像もできないものを、現実と呼ぶのでした。

ということは、現実世界が成立(=どうやったってみえないものも、存在はするよねと認めること)してはじめて、知覚と空想は区別がつき、知覚的空想も可能になるということになります。

また、ままごととかごっこ遊びとかにおいては、空想(ケーキとみなされた石、お母さんとみなされた私)は、別の何か(ケーキ、お母さん)をあらわしています。これは、石とか私とかが、象徴とか意味とかであるとも言い換えられます。つまり、知覚的世界(石とか私とか)が、それ自体とは別の意味を持っているわけですね。ここで、話は第4章とつながります。

 

 

ちなみに、石とか隙間なく円形にしきつめて、曼荼羅みたいな模様をつくる自閉症児がいるのだそうです。このときには、その曼荼羅は、別の何かを示しているわけではなく、曼荼羅曼荼羅というか、純粋な形そのものです。意味がないというより、純粋な形を増やしていける能力とみてもいいんじゃないかな、というのが著者の主張です。

この曼荼羅、隙間がないことが特徴です。形=知覚できるものこそが問題となっていますから、知覚できないもの(隙間)がそこにあるというのは、存在しないはずのもの(空間)がそこにある! ということで大事件です。なので隙間がない。

これに対して定型発達のこどもの描いた絵とかは、基本的に隙間だらけです。これは、空間にも意味(わたしとお母さんのあいだとか)があるので、完全になにもないというわけではなく、空間がみえても大事件にはならないから、ととらえることができます。

 

 

勝手にまとめます。ASDの人は、知覚も空想もできないもの(現実)が、「それでも存在する」と想定することが苦手です。でもやっぱり、現実は現実で存在するので、現実(知覚も空想もできないけど存在するもの)の存在が否定できない! という事態で動揺しやすい。

なんかすごくわかる気がするんですけどね。これ、定型発達の人にはイメージできるのでしょうか。定型発達の人が書いた本だから大丈夫なのかな。どうでしょう。