茶碗がたまってきたね、だから何?

「茶碗がたまってきたね」に対し、「そうですね」と答えていたらネガティブな評価を受けた旨のツイートが流れてきました。正解は? 「洗っておきますね」のようですね。じゃあ、茶碗を洗えと言え、とかつい思うんですけれど、ASD的反論はさておきましょう。ひとまず。

 

まず、この「茶碗がたまってきたね」。自分以外全員外国人の場合、この人は同じセリフを言うでしょうか。言わないですよね、たぶん。もちろん、その「外国人」が日本と同じ文化を持っているという確証があれば別ですけれど、その確証がない限りは言わないでしょう。これはすなわち、文化的に何かを共有しているという確信があってこその発言であるということです。

「茶碗がたまってきたね」というセリフのなかには、少なくとも外国人・部外者からみれば、つまり、文章だけ見れば、どこにも茶碗を洗えとか入っていません。こういうのを暗号と言いませんでしたっけ。文化的に何かを共有しているという確信があっての暗号。山と言えば川。ニイタカヤマノボレ。つまり、この発言は、文化的な何かを共有しているかどうかの、仲間か否かのチェックにも使われていると考えられます。この暗号が読み解けないやつは仲間と認めない。なるほど。

 

また、この「茶碗がたまってきたね」は、「茶碗を洗いなさい」よりも強制力が強いです。だってね、「茶碗を洗いなさい」「今忙しいんで後で洗います」は会話として成り立っているけど、「茶碗がたまってきたね」「今忙しいんで後で洗います」……? 会話として変じゃないですか。ということは、ぜひとも茶碗を洗ってほしければ、「茶碗を洗いなさい」と言うより、「茶碗がたまってきたね」と言うほうが効率がいいということになります。仲間かどうかのテストに加えて強制力も強い。これは便利ですね。だから流行る。

 

さらに、です。この茶碗を洗うことで何らかの悪い事態(茶碗洗いならたぶん悪い結果は発生しないとは思いますけれどもね)が起きたとしましょう。茶碗を洗えとはっきり言われたのであれば、指示した側にも責任が発生します。洗えと言った人も洗った人も両方に責任がある。しかし、「茶碗がたまってきたね」であればどうでしょう。それを忖度して茶碗を洗った場合、その悪い結果の責任は、洗った人のみにかかってきます。ということは、仲間かどうかのテストに加えて強制力が強く、悪い結果に終わっても言った側の責任は問われない。便利すぎますね。だから流行る。そういう「忖度」ができる部下が歓迎される。当たり前です。

 

しばらく前に「忖度」という言葉が流行りました。忖度させる側に歓迎されているのかと思っていたら、忖度する側にも流行ってたようですね。恐ろしい世の中になったものだなあ、と、じつはいまでも思っています。