茶碗たまってるね、ところでそれは、キミの仕事だよ?

茶碗たまっているね、と言われたからといって茶碗洗いを買って出るべきなのか、という問いについては、もちろんケースバイケースであるとはいえ、イエスであることも多いのだと思います。それはわたしには無理、あるいは、可能かもしれないけど今度は「茶碗たまっているね」という文言を「茶碗を洗いなさい」に自動変換してそのとおり動くという、定型の人があまり想定していない学習を行い、ついには「いやいまは茶碗を洗う必要はない」「茶碗たまっているねって言いましたよね?」とかいう事態を引き起こしそうな気がします。

 

それはさておき。

「茶碗たまっているね」「そうですね」

この、そうですね、と返事をした側が、かりに定型の人だったとしましょう。まさかすべての人がかならず茶碗を洗い出すわけでもないでしょうから。

 一つ考えられるのは、茶碗を洗ってほしいという気持ちは検出しつつあえて無視、というパターンです。洗ってほしいと言われて断るのに近いです。

 ところで、この「茶碗たまっているね」の場面を考えるに、たとえば、平社員が「茶碗たまっていますね」と言って、社長さんが茶碗を洗うとは考えないですよね、たぶん。ということは、です。この「茶碗たまっているね」「洗っときます」が成り立つ背景には、「茶碗を洗うのは本来キミの仕事である」という合意が存在すると推測されます。

 ということは、この、茶碗たまってるね、そうですね、のやりとりは、「茶碗を洗うのは本来キミの仕事である、そして、現在、茶碗を洗うべき状況である、よって、キミはいますぐ茶碗を洗うべきだ」に対して、(そうですね、ということは、茶碗を洗うべき状況であるということは認めているということですから)「それはわたしの仕事ではありません」と宣言していることになってしまう。

 そうなると、これは、たんに、茶碗を洗ってほしいという依頼が断られたというだけではありません。茶碗を洗ってほしいという依頼が断られただけで腹を立てる人もたぶんいるでしょうけど、そこまで多くないと期待します。しかし、立場に付随する「茶碗を洗うのは本来キミの仕事である、そうだよね?」という確認も「いやそれわたしの仕事じゃないです」と否定されたら、そりゃあ腹も立つかと。

 というところまで考えて、うーん、冒頭に書いたプログラミング以上の学習が、わたしに可能であるとは現時点で思えないのですが……