あずさの、アスペ的ふりかえり。

わたしの歴史?みたいなものは、たぶんアスペとものすごく関連しているので、少しお話したいと思います。小学校5年生くらいまでは、アスペが強すぎてトラブルに気づけないことと、何でもかんでも全肯定する父親のおかげで、悪い思い出はほとんどありません。問題はその後です。

勉強ができることがとりえのアスペのこどもがその後どうなったか、ということですね。

いろいろあったんですけれども、なるべく短くまとめます。

 

 

まず、中学校1年生の中盤から、拒食症にかかりました。古典的な「成熟拒否」に加えて、ASD関連の数字へのこだわりがあったと思います。食事は極端に減らすし、毎日無理に運動するし。このころ、漫画とゲームを自分に禁じたりもしました。そうでもしなければ生きる価値がないと思っていました。もっとできるはず、と自分を追い詰めてました。栄養学的に正しいと言ってたあの食事は、今考えると栄養学的に完全に落第なんです。認知のゆがみって怖いですね。

父親は大混乱。彼は「背が低い」ことがコンプレックスで、食べなければ背が伸びない、とばかり言ってました。こっちもASD的こだわりを発揮してましたね。

 

 

高校1年生。よせばいいのに運動会マスゲーム

補習に補習を重ね、夏休みの間ほぼ1回も鉛筆を持たずすべての時間を練習に捧げ、それでも皆についていけない。さすがに努力は認めてもらいましたけれど、できないものはできない。といっても間に合わせました。

苦手なことを伸ばすことが正しいと信じてましたからね。当時は。

 

 

高校2年生、オーストラリアに留学しました。1年間。

勉強はできたので(数学とかはハンデないですし)、勉強ができれば素直に尊敬される環境で、学校は楽でした。

ホストマザーがわりとヒステリックな人で、よく怒り、早口になるのでわたしが理解できず固まっていると余計怒り、「こんなときだけわかったふりをして」とか言われたりしてました。なぜ怒られているのかわからないことが多く、たぶん文化の問題と、ASD的問題があったと思います。

これ、助けてもらいようがないんですよね。家庭内のことですから。つらかったです。

ただ、その後、「あの経験に比べればどうってことないな」と、忍耐力はつきました。また、「それどころじゃなくなった」結果、拒食症は治りました。

 

 

大学。よせばいいのに体育会系合気道部。

アスペの巣窟と言っていい大学でしたので人間関係のトラブルはあまりありませんでした。同期とも楽しくやってました。

しかし。協調運動障害が治るわけもなく。「真面目にやってる?」「聞こえてる?」家に帰ってイラストで再現してそれを練習したりしても、できない。どれだけやっても周りに追いつけない。あれはつらかったです。

 

 

修士1年。研究生活は無理だ、と悟りました。

想像力が足りない。科学の進歩に貢献しているんだろうけどその貢献の実感が持てない。というわけでその実感がありそうな医者になることにしました。

改めて受験勉強。そんなにたいへんじゃなかったです。

 

 

医学部。再受験というわけで周りより年齢が高いことにいつもコンプレックスを感じてました。それはともかく。

医学部4年。うつ病発症。これは本当に長引きました。また、強制入院レベルの重症でした。あとで思えばある程度休養すべきだったと思います。しかし、当時のプライド的に、また、人間関係の構築が下手であることを考えると、無理やり普通の学生生活を送ったのはそれはそれで正解だったのかもしれません。とはいっても、いまわたしのまえに当時の自分が現れたら、問答無用で医療保護入院にしそうな気がします。

今思うと薬も間違ってました。でもあのときの精神科主治医には感謝しています。支えになってくれてましたから。でもそれ以上に支えになってくれたのはポリクリのグループでした。「あずさはうつだから」と、いろいろかばってくれました。いまでもほんとうに感謝しています。

 

 

いっとき、デパスを1日6錠とかそれ以上とかのんでました。その後、「安定剤で問題を解決した気になるのはよろしくない」とある日きっぱりやめました。

 

 

薬の副作用で、体重が増えました。一部の薬は、今までと同じ生活をしていても体重が増えます。そして、摂食障害が再発しました。ただ、このときは純粋な拒食ではなく、過食もしないけど、体重が増えてきたら何でもかんでも吐く、というタイプでした。

 

 

うつが治ってないのに、国家試験には受かったので初期研修。

あれはほんとうにきつかったです。なんていうかエリート思想の病院で、わたしは完全な落ちこぼれでした。何回か死のうと思いました。

うつの症状と薬の副作用で、ぼんやりしていて学習がまったく進まない。そもそも針をさすとか苦手で、体で覚えるのは健康でも難しい。まわりはいわゆるエリート。「麻酔科面白いですね」「キミには向いてないよ」とか言われたり。

病気しつつもかろうじて残っていたかすかなプライドは粉々になりました。あぁそうかわたしって「できない子」なんだな、みたいな。うつは重症のままでしたので、うつによる自己評価の低下もあったとは思いますけれども、でも。

 

 

医学部合格と同時に結婚しました。

筆舌に尽くしがたいほど、お世話になってます。夫がいなければ20代のうちに確実に死んでました。また、他人に伝わりづらい話し方を(たとえば話し言葉故事成語とか英語とか四字熟語とか混ざってました)、矯正してくれました。

 

 

初期研修中にもうつがひどすぎて何回か休職したので、初期研修を留年しました。「前代未聞の『できない』研修医であるという評価は確立しました。

 

留年したぶんの研修を終えて、さて何をする?(この役たたずをだれがひきとる?)というときに、手を挙げてくださったのが当時人手不足で困っていた産婦人科でした。わたしは手術室が苦手である、ということをご存知で、それであれば病棟の患者さんの話を聴いたりいろいろ説明したり点滴の組成を考えたりマイナートラブルに対処したり、つまり病棟医として働きなさいとのことでした。

 

これはやりがいがありました。数カ月後。

産婦人科部長「あずさ君はたいへんよくやってくれてます」

研修委員長「あずさ?」

産婦人科部長「3年目の、初期研修を留年した彼女です」

研修委員長「人違いかな…」

 

てなことがあったそうです。うつが多少よくなっていたことと、目の前の患者さんに対してできることがある、というのが嬉しかったのと、でしょうか。ここでやっと、他人と比べてのプライドではなくって、純粋に、自分が患者さんのためにできることという自信が少しはついたように思います。このときまでは、他人と比べて喜んだり落ち込んだりしていたんですよね。

 

 

初期研修3年(留年含む)をへて精神科に入局、精神科医を名乗るようになりました。何回かうつになったりパワハラを受けたりしましたけれども(なぜか机がもらえないとかいう、深刻なレベルを含む)、夫と仕事(患者さん)が支えになって、なんとか働けています。最近は病状も安定し、病院もまともなところに移ったので、普通に働けています。