みえないものがいっぱいみえている空間について。

自閉症の現象学 第4章です。第3章が時間でした。第4章は空間の話です。

 

 

わたしも含め、正確な写生や模写ができる自閉症の人は多いようです。

なぜ正確なのか。知覚(この場合は視覚)そのままだからです。じゃあ定型発達の人は? 何かしらのノイズが入っていると考えられます。

この場合のノイズとは、「意味」です。定型発達の人の絵は、むしろ意味で構成されています。

 

 

意味とはなにか。

たとえば風景画を描くとして。手前の家は自分の家で、庭に咲いてるのは自分が植えたチューリップできれいに咲いたので嬉しくって、昔遊んだ公園が向かいにあって、その奥には絶望的に気の合わないクラスメイトの家があって、ずっと向こうにはばあちゃんの実家がある山がみえて、昔登ったとき町が一望できて気分よかった、みたいな感じになりましょうか。これが意味です。たとえば感情(嬉しい)とか人間関係(気の合わないクラスメイト)とか用途(公園)とか。カメラが風景を捉えるのと違い、人が風景を眺めるとその構成要素に、見た目(知覚)以外の意味が与えられます。ちなみに、自分にとってぜんぜん意味をなさないものはわりと見えなかったりします。

この「意味」は、平面的とは言いがたいと思います。自分にとって重要なものは目立つでしょうし、さほど重要でないものは目立たないでしょうし、ぜんぜん意味がないものはひょっとしたら見えなかったりするわけです。複数重なってもいますね。公園であり昔遊んだ場所であり今行くと遊具が片付けられててちょっとさみしいな、みたいな。その一方で、見たまま正確に、というのとはかなり違います。裏を返すと、こういう「意味」を除いた絵は、とても写実的になります。

定型発達では、風景に意味が重なっているといっていいでしょう。

 

じゃあ自閉症の人は? 風景は風景の場合が多いようです。だから、謎に正確な写生ができてしまったりします。わたしも、描くべきものさえ目の前にあれば、絵はけっこううまいです。これはつまり、意味の存在が薄くて、知覚だけを際立たせるのが簡単で、意味を排除して写真みたいに「みたまま」写し取ることができる、ともいえます。

 

 

で、この意味の出どころは結局のところ視線触発です。

視線触発が、なんにもない、のっぺらぼうの空間にベクトル(こことそこの差)を生じさせ、自分と自分以外のあいだに仕切りを作るんでしたね。のっぺらぼうの空間には意味は少なそうですけれど、わたし/相手が出現すれば、そこには最低限2つの意味(わたしと相手)が出現しますし、ひょっとしたらその後、それ以上のいろいろも出現するかもしれません。

 

 

さて。自閉症の人は、段階によっては「見えないものが存在しない」世界に住んでいることがあります。たとえば誰かが別の部屋に行って(見えなくなって)また戻ってくるとすると、その誰かは一回消滅して、似た誰かが登場したけどもとのその人かどうかは保証ができない、みたいな世界です。

この場合、見えている世界=(その人にとっての)外部世界、ですね。しかしこれイコールですから、見えている世界と外部世界の見分けはつかない、ということになります。

 

 

見えている世界と外部世界の区別は、「いったん隠れて見えなくなったものと再び現れたものは同じものだよね」という概念です。恒常性といいます。見えている世界には恒常性はなく(視界から一回消えたものは再登場しても同じものであるとはかぎらず)外部世界には恒常性があります。

 

見えないものの代表は「裏側」です。ひっくり返せば見えるけど、今度は表が裏になってやっぱり同時には見えませんね。恒常性から見える部分を引き算すれば、裏側(みえないもの)ということになります。こうして、論理(数学?)を用いて、みえない! という不安は解決されている、と考えることもできます。

第三章の、未来の話にも似ていますね。未来の予測は絶対に未来と一致はしなくてその差は絶対に知覚/想像できないけど、それはそれとして未来ってそういうものだよね、ということになってるから、あまり不安にはならない。

 

自閉症の人は、こういう「みえないもの」=「知覚できないもの」の扱いが多少苦手であるということのようです。

 

 

じゃあ、みえないものを使わずに、知覚できるものだけで空間世界をごちゃごちゃから救い出す(構造を作る=構造化)にはどうするか。

一つの答えが、地下鉄とかに何度も乗ることなのだそうです。路線図って、標識(駅名)と線でできていますよね。これは非常に単純な空間の構造化であるといえます。用途とか人間関係とか感情とか抜きに、単に駅名。そしてつなぐ線。これを繰り返し追体験する=同じ路線に何度も乗ることで、この構造化を確認して確実なものにしているというのです。

ライトバージョンとしては、通勤通学路を絶対に変えない! というものもあります。これも同様に、同じ風景、自分の頭の中の地図を、毎日再確認している。わたしもそういえば、風景を確認しつつ通勤してますね。道は絶対変えません。

 

 

方向音痴の話もあったのですけれどどうもイメージできないというかわたしのイメージにあわないので、本筋ではないですし割愛します。というわけでやっと半分です。