アスペについての精神病理3。ありがちやりとりが苦手なことと、アスペ的誠実さについて。

あずさの対人関係を、アスペについての先人の考察を参照しつつ分析していきます。

 

前々回および前回の記事の結論としては、

  • 他人の視線(他人が自分について何か思うところがある、ということ)が感じられない
  • 自分自身を観察する自分、というものが発達しなかったのではないか

というものがありました。いずれも、実感に即しています。他人が自分について、良きにつけ悪しきにつけ何かおもわくを抱いているなど立ち止まってよくよく考えてもたぶん自分では思いつくことができませんし、(多数派のひとについては想像するしかないとはいえ)自分のことが見えてもいないのです。セルフモニタリングが苦手というだけではなく、他人からどう思われているかという問いも、意識しないとすぐ頭から消えてしまいます。

 

あずさが多数派のこどもであればどうでしょう。

他人の視線はきっと、かなり強く意識できるでしょうね。

他人の視線を感じるということは、他人に見られている自分の存在を意識することにつながります。他人に見られている自分は、いずれたくさん重なって、自分を観察する自分に進化?するようです。

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現実のあずさは幸か不幸かアスペです。

他人の視線や意図はよくわからないし、自分を観察する自分もできあがっていません。

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また、他人の視線や意図を感じないということは、他人に対する興味も少ない(多数派に比べてですよ)と考えられます。あんまり一生懸命見ていないわけです。

 

多数派のコミュニケーションは、多くはパターン認識やお作法にのっとっているように見えます。たぶん、台本みたいなものがあるのでしょう。(これはわたしの推測です)

しかし、そもそも他人のことが見えていない(見てもいない!)あずさには、そのお作法を学ぶ=台本を手に入れるチャンスがありません。しかも、自分のことが見えないものだから、自分に台本がないことにも気づけない。

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その結果何が起こるか。

他人に接するときには、できあいの台本はないので、ないものは仕方ないので新たに作ることになります。オーダーメイドなのですばらしいか、というとこれも良し悪しで、台本に基づいたコミュニケーションでは物足りない場面では非常に歓迎される一方、台本が期待されているコミュニケーションにおいては、予想を裏切り続ける結果となり、相手に不安を抱かせることもありそうです。

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新たに台本を作るというのは、そもそもきちんとした台本を持っている多数派にとっては「かなりの大事業」だと思われます。相手をこころから尊重するときにしかなかなか行えない。ということは、(仕方なく)毎回台本を書き起こすあずさは誠実なやつだと思われることも…(ときには)あるようです。ふつうの台本ではないだけに「変わったやつ」と思われることも多いんですけどね。

新たに台本を作るのはかなりの負担ですから、一度に複数を相手にするのは無理、という結論も導けそうです。

 

わたしの実感には沿っているのですけれど、これがアスペの「ありがち」なのかどうかは、いまのところ結論は出ていません。少なくとも、自己分析ではあります。