ギフテッドになりたかったなとか。

ギフテッドへのあこがれがあります。いまでも。って、わたしのこどものころはそんな概念はなかったわけですけれども、なんていうか、才能を認められて英才教育に組み込まれるみたいなこと、こどものころから夢見ていたなとか。

 

 

わたし、知能検査の中でVC(言語理解)が一番高いんです。これが気に食わない。というのも、言語理解って、「学習」「勉強」で上げることが可能なんですよね。例えば語彙。本をたくさん読めば増えるにきまっています。例えば知識。勉強で増えます。あたりまえです。

もちろん、本をたくさん読んだり勉強してその内容を記憶したりすることにもある程度の(知的?)能力が必要であることはわかるんです。でもどっかで、「それ、生まれつきの才能とは関係ないし、知能テストで測るだけ無駄」とか思っている。いや、患者さんの知能テストを解釈する際には言語理解ももちろん重視します。自分について、意味がないと思っているだけです。

 

 

ないものねだり、と片付けてもいいけれど、ここにはたぶんわたしのわりと根深い問題がひそんでいるように感じています。

生まれつきが重要だから努力しない、じゃないんです。たぶん、こどものころからいまに至るまで、いろいろなことを「努力して」身につけてきたとは思っています。病気でどうにも動けなかった期間はそれなりにあるとしても、そこを除けば、継続的にいろいろ学習したり努力したりしてきました。とくに精神科医になってからは、ことさらな努力というわけじゃないんですけど、本を読んだり「まじめに」診療にあたって診療のプロセスと学んだことを対比したり、臨床能力を伸ばす方向に時間とエネルギーを割いてきたとは思います。

 

そのいっぽうで、さかあがりだけじゃなくて、「どんなに努力してもわたしだけできない」が多すぎるんです。さすがにいまは、明らかに向いていないことは数日やってみれば予測がつくので、やってもできないことに無理に手を出すことは減りました(でもやればできるはず、という反論は申し訳ないですけど受け付けません)。また、業務において、できないことを強要されることもなくなりました。しかし、それにしたって、自分だけできなくって、いくらなんでもおかしいと思って他人の何倍も努力して、でもできなくって、あげく、努力したということすら信じてもらえない、そういう記憶が多すぎるんです。

 

だからこそ、なのでしょう。自分だけできないことが多すぎるのであれば、自分だけできることがほしいとどうしても願ってしまう。「少なくともいくつかはあるでしょう」そうですね。学生時代でもいまであっても、そういうことはいくつかはあります。しかしそのほとんどあるいはすべては、どう考えても「努力の成果」なんですよね。

たとえば努力しても医学部入試に合格できない人がいる、それもわかるんですけど。

 

努力の成果ではなくって生まれつきできることがあればいいなと願っているんでしょうね。どんなに努力してもできない、の反対は、努力しなくてもできる、じゃないかなと。

 

 

何をどうやってもできないことはさておき、他のことについてはできるようになるまで努力してきたし努力することができる、それは一つの才能ではないか、そう言われたことはあります。まあ、ね。どんなに頭がよくてもまったく勉強しなければ医学部には入れません(3ヶ月勉強しただけで入れた人も知ってるけど、その彼にしたって、勉強時間ゼロではどうにもならないでしょう)。たとえばそういうこと。

 

と、つい感情的になるのは、「どんなに努力してもできないうえに、その努力すら信じてもらえなかった」トラウマに関係しているからなんでしょうね。トラウマ関連事象については、どうしても感情的になってしまう。そういうものではあります。