精神療法とは何かみたいなこと13。その希望にはそいかねます。

たとえば躁状態の人が外来に来たとしましょう。

「たいへん気分がよいです。この躁状態を続ける薬をください」

たとえば摂食障害でやせすぎている人が外来に来たとしましょう。

「さらにやせる、食欲の減る薬はないですか」

 

…… 病院に来た目的を、主訴と呼びます。この「主訴」、病気の治療と関係なかったりひょっとしたら真逆だったりするんですよね。もちろん、困っているから病院に来るんですけれども、その「困っている」の解決が、ストレートに病気の治療に結びつくとは限らない。とはいっても、「その躁状態は続けるんじゃなくていますぐにでも抑えなければなりません」と一言目からつっぱねたら、患者さんはたんに病院に来なくなるだけで、治療にならないことが予想されます。

 

もちろん、上記の躁状態など、放置した場合の被害があまりに大きい場合には(たとえば気が大きくなって、無計画に借金して会社を立ち上げるとか、一千万単位の借金を抱えかねません)、いわゆる強制入院(医療保護入院など)の手立てをとることもあります。これは、前回書いたリスクの話の裏側です。患者さんから見れば確かに「意に反してたとえば入院させられる」というリスクであっても、たとえば一千万単位の借金を抱える危険がある場合に、それを取り除くというメリットもあるわけです。

 

ということは、です。

患者さんの希望が通る/通らない(あるいは、意に反した何かが起こる)

患者さんの危険が防がれる/防がれない

つまり、

患者さんの希望が通る、危険も防がれる(気分の落ち込みを治してください/うつ病、とか)

患者さんの希望が通る、危険が防がれない(眠れません/漫然とした睡眠薬投与、とか)

患者さんの希望が通らない、危険が防がれる(躁状態を続けたい/躁うつ病の治療、とか)

患者さんの希望が通らない、危険も防がれない(これは論外ですね)

ということになります。

1つ目は問題ないですね。お互いの利害が一致しています。

3つ目は、少なくとも一時的には恨まれたりします。躁うつ病の場合は、後日、「あのまま放置していたらたいへんなことになっていた、治療してよかった」という感想に変わることもありますけれど、恨まれっぱなしということもあるにはあります。ただしこれは、診断あるいは対処が正しいという前提です。診断あるいは対処が間違っていると、4つ目になってしまいます。患者さんの希望が通らない、危険も防がれない。これは困ります。また、たんにつっぱねたり、いきなり強制的な手段に訴えたりしたら、そもそも治療が始められなかったり(二度と病院に来ないとか)、治療が続かなかったりとか、人間不信になったりとか(ある意味副作用です)、これまた、イマイチな結果が待っています。「でも正しい治療をしたし」と、医者が自己正当化することってけっこうあります。

2つ目は、少なくとも一時的には感謝されます。ただ、長期的にみると、病気が長引いたり、副作用で問題が大きくなったりします。たとえば、一部の安定剤には依存性があります。気持ちを落ち着かせたいという希望に沿うのはいいんですけど、何年も続くと、安定剤依存になる人がときどきいます。こういう、治療のせいで健康被害が出ることを、「医原性」といいます。とくに精神科では多いです。安定剤依存がいちばんわかりやすいと思います。「でも、患者さんの希望はこれこれだったし」と、医者が自己正当化すること、ここでもけっこうあります。

 

というわけで、すごく当たり前の話ではあるんですけど、

正しい診断/治療 と、信頼関係(というまでの余裕がないとしても、これって自分のためになるのかな/ならないのかもしれない、という漠然とした期待あるいは納得)が必要ってことですね。

 

上にあげた2つ目も3つ目も、あんがいしばしば起こる上に、ちゃんと?言い訳が用意されていてそっちについ逃げたりするので、自戒を込めて、です。