精神療法とは何かみたいなこと8。聴くだけならば安全?

さて、前の記事で、「ひとこと言う」ということをとりあげました。

全部聴いた上で、「過労です。すでにトリプルワークではないですか」とコメントしたとしましょう。比較的無害な例をあげたつもりです。しかし、「とにかく聴く派」の人たちからは以下のように責められる可能性があります。

 そんな無責任なこと、言っていいのか。

責任というのも、いろんな意味のある言葉です。とりあえずは読んで字のごとく、「責められたとしてもしかたない、責められるとすれば、わたしです」ということにしておきましょう。

・言ったことに対する責任。

 これはわかりやすいですね。そのコメントのせいで悪いことが起きたらどうするんだ。害をなしてはならないという大原則に違反する可能性があるではないか。よってコメントなどすべきではない。そうすれば、問題は起きない。

しかし。ほんとうにこれだけでしょうか。わたしは、もう一つあると思います。

・言わないことに対する責任。

 すべて聴いた上で(聴いたと判断した上で)、そのコメントが必要だと判断したならば、専門家を名乗る以上、それを伝える責任(義務と言い換えてもいい)があるのではないか。もちろん、そのコメントを言わないという判断もありうる。しかしその場合、言わなかったことについての責任も発生するし、言わなかったことで事態が悪化した場合、責任の一端はわたしにあるのではないか。

 「言わなければ、害はなしていない。責任を取らねばならないような罪はない」それってほんとうに、専門家として正しい態度なのでしょうか。罪は問われないにしても、責任を果たしたと本当にいえるのでしょうか。これは、精神科医の中ではあんまり一般的な考え方とはいえないかもしれません。でも。

 

 

これと似た話。「〜しない」ということについて、わたしたちは本当に「無罪」なのかという話です。これが、本題の、「聴くことについての副作用」です。

 

話しすぎて後悔する、ということはありませんか。ついつい、勢いで。あるいは、話さなければならない気がして。

 

これも、聴いている側には逃げ道が用意されています。「自分で進んでしゃべったんだから、わたしには責任がない」しかし、これ以上話させるべきではないという判断および実際に制止することは、わたしたちの果たすべき責任ではないでしょうか。

 

 

わかりやすいのは、「一回に扱える情報の量」かと思います。まとめて話せる分量は、人によって異なります。たとえば、重度の知的障害の人。知的能力は高くても、たとえばうつ病とか適応障害とか、病気によっては一時的に知的能力やキャパシティは下がります。一度にたくさんしゃべると、自分で混乱してしまう。話してよかったも何も、こちらがコメントするも何も、フリーズして入力も受け付けなくなってしまう。消耗します。これでは有害であると、言っていいでしょう。

現在のキャパシティを測ることは、わかりやすい説明をこころがけるためだけではなく、一回の情報量を限界以下に留めるためにも、必要だと考えています。

 

 

量だけではなく、内容についても、限界/限度はあるように思います。

 

話してもらわないと治療になりませんので話してください。

楽になるのであればどうぞ話してください。

少なくともいまは、話さないほうがよいと思います。

 

永遠にとりあげては「いけない」話題が存在するかどうかはわかりません。しかし、少なくとも、たとえばちゃんとした信頼関係ができたとお互いが確認し納得するまでは話すべきではないこと、というのはいろいろあると思います。かなり悲劇的なことであっても、本人の中で整理されているのであれば早い段階で話してもいいでしょうし、まだまだ傷として痛むのであれば、急がないほうがいいでしょう。

 

これね、話す話さないは本人の決めることだから、と突き放しちゃだめだと思うのです。相手が健康なら別にいい。まちがって話しすぎることもあんまりないし、話しすぎてダメージを受けても、回復は速いからです。しかし、弱っていて、ブレーキも弱っていてうっかり話しすぎてしまう人の場合は、聞き手がさえぎる必要があります。そう、エネルギーが下がってくると、ブレーキにさくエネルギーも下がってしまうのです。そういうときにかぎって、回復のためのエネルギーも少なく、ダメージが大きい。

また、「相手に言わないことがある」というのは、それを言うかどうかの決定権が自分にあるということです。決定権を持つということは優位にあるということで、診察においては医者が強くて患者が弱いみたいなことがけっこうふつうに起きることを考えると、この「決定権」をキープするのはけっこういいことのように思っています。

これね、「ぜったいに」無害な話題、というものはなかなかない、というのも最近わかってきました。たとえば家族構成ひとつとっても、事務的に聞くべきではないときがある。いや、100%事務的なら聞いてもいいのかな。どうでしょう。

 

 

だから、少なくとも「いま」「今回」「すべてを」話す、ということは、とくに弱っている人にとっては、有害となりうる可能性があると思います。しかも、弱っている人の中には、聴いてほしいことがらを多く持つ人が含まれていて、彼らは「うっかり」話しすぎてしまう可能性が高いです。

これは、(相手によるとはいえ)副作用とはいえないでしょうか。聴きさえすればいいというのも危険だ、とわたしが思うのは、ここです。