ASDと「悪意」のこと(つづき)。

ツイッター上で、ASDと悪意についていろいろやりとりがあったので自分なりにまとめてみます。ASDとくくったのは主語が大きすぎたと反省したので、ひとまず、あずさ(わたし)のこととして話してみます。ASDのひとの中には、心当たりがある人もいるかとは思います。どうでしょう。

 

 

まずは用語の定義を。

 悪意=相手にダメージを与えようとする意図

ということにしておきます。

 

あずさ(ASDです)が太郎君になにか余計なことを言った、という状況を例にします。

 

 

まず、悪意の有無はだれが決めるのか。意図があるなしは本人が決めることですね。善意、殺意、好意、なんにせよ、本人のものです。ただし、常識?に基づき、悪意があるなどと「推定」されることはありえます。あくまで推定ですけど。本人が存在するのだから本人に尋ねればいいのですけれども、よのなか「その本人がほんとうのことを言っている保証はどこにあるんだ」という疑い深い人も多いですよね。

この場合、考え方や立ち居振る舞いが少数派のわたしとか、間違って推定される可能性がありそうです。

とはいっても、本人の主張にかかわらず、相手方あるいは外野が本人の意図を推定してそれを一方的に真実とするのはちょっとやりすぎのようにも思います。一昔前の不良が、「なにガン付けとんじゃ」とかなんとか因縁つけたみたいな事態になりかねません。

 

 

悪意があるなしは本来はあずさの問題だとして。あずさにはそれを主張する権利があるのか。これは難しい。

 

というのも、よのなかには、「悪気はないんだから(許してあげなさい)」というフレーズが横行しているのです。悪意がないという主張は、許してくれあるいは罰を軽減してくれと聞こえるかもしれません。そんなつもりはないんだけど、それこそ、そういう「つもり」を推定されてしまいそうです。

悪気があろうとなかろうと、被害は被害(傷ついた、とかも含めて)だし、とわたしはついつい考えるのですけれども、どうも、(悪気+被害)と「罪の重さ」が相関するのが、世の常のようではあります。

 

そう。これ。

悪気があろうとなかろうと被害は被害で、被害は償われるべきであり対策が講じられるべきであり、ということをついつい最優先するわたしは、そこに、「悪意」を算入しない傾向にあります。(被害)が「罪の重さ」と相関している、とも言えます。自分の与えた被害については償う気はあって、それは当然で、でも、「悪意」を想定されて誤解されるのは悲しい、みたいな感じです。じつをいうと、悪意が罪を増やす感覚もないので、悪意を否定したからといって罪が減る気もしていなかったりします。だからあるいみ「ぬけぬけと」宣言する。だって、単に誤解を解きたいだけだから。それ以上の何かを要求したつもりはないから。

でも、たぶん、これを聞いた人の多くは、「悪意がないんだから無条件で許してくれ、罪は軽いはずだ」と言っているようにとるのでしょう。とツイッターのやりとりで気づきました。

「悪意はないんだから許してやりなさい」と言われて悲しんだ経験のある人が、「ASD(のわたし)は悪意を持ち得ない」という文章を目にしたときに、「ASD(のあずさ)が悪いことをしても無条件で許しなさい」と翻訳してしまうのは、無理もないことのように思えます。

 

 

悪気がない、悪意がないというのは、ほんらい、被害者がいうべきことであって加害者がいうべきことではないという意見も目にしました。これは、なるほど、です。

しかし、加害者だから自分に悪意がないと言ってはならないとすると、やっぱり、わたしはその「悪意」の責任も取ることになるのかな… と考えると憂鬱ではあります。せめてせめて、「悪意があるのだろう」という意味のコメントに対して、それについてだけは反論する権利はあるんだろうか。どうでしょう。

うーん、これは難しい。自分が悪意に反応しづらく、また、他人がどのように悪意に反応するかを追体験することがほぼ不可能であることを自覚しているので、ここでわたしが不適切な行動に出る可能性は非常に高いと言わざるを得ません。わたしだったら… の仮定は信じられないほどしばしば失敗する、この件に限らず。自分自身から類推して他人を理解することを自分に禁じるのは、試みてはいますけれども非常に頻繁に失敗します。

 

 

別の論点。

 

多数派のひとたちにとっては(悪気+被害)と「罪の重さ」が相関する。

悪気がないということは、最初に想定された罪の重さを減らすことに相当する。

ASDの)わたしにとっては、(被害)と「罪の重さ」が相関する。

情状酌量とかいう言葉もあるしなあ、という理解のもと、その上に「悪気」による罪が乗っかるかもしれない。悪気がないのがデフォルトで、悪気があるということは、最初に想定した罪の重さを増やす。悪気がないというのは、罪を増やさないということに相当する。

 

ごちゃごちゃ書きました。要するに、

 割引するか、値上げを断念するか

の違いです。

どっちもある意味同じなのかもしれませんけれど、たぶん、値上げを断念するほうが、心理的な障壁は低いのではないでしょうか。(悪気ぶんの)罪を減らせ、という主張と、(悪気ぶんの)罪を加算するのをやめてほしい、という主張と。どっちが相手に負担を強いているように聞こえるかしら、けっして、イコールではない気がします。

 

 

それにくわえて。

 

あずさに余計なことを言われた太郎くん。

太郎君がかりに、「そうか悪気はないのか」と納得したとして、他に理由を見つけることができなかったとしましょう。これって怖いですよね。やっぱり。自分に悪いことが起きてその理由が見当たらないというのは恐ろしい。迷信とかいっぱいあるのも、理由がないなら作ってしまえという人類の知恵?なんだと思います。

残虐な犯行であっても理由が明確ならあまり大きなニュースにならないですし、そこまでではなくても、理由がはっきりしないと大ニュースになります。

 

そう、「悪気」以外の説明が見当たらないのは問題ですね。それしか見当たらなければそれに飛びつくしかない。本当に残念なことにわたしは多数派とは違う論理のもとに行動していることがままある(矯正中)ため、他の人から見たら理由や意図が不明な言動も多かろうと思います。しかしそれをいちいち悪意で説明されるのも切ないなとか。

 

「それはなぜなのか」という説明は随時必要なのかもしれません。ただ、その説明のなかには、(トラブルが起きてないときにこそ)あずさは悪意なんて高級なものを持つことができない、という一文をまぎれこませておきたいです。こっそり。