ASDは「悪意」を持ち得ない、として。
ASDの人の多くは、悪意なんて高級なものを持つことができない
というのは、全員じゃないんですけど、できれば「原則」として広まってほしいです。
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相手を困らせ、困っている相手を見て楽しむ
というのは、高度に社会的な技術だと思います。
わたしにとっては、まず、相手をわざわざ困らせるというのが難しい。嫌いな相手=できれば避けたい相手なので、何かを仕掛けるために近づくのはあまり得策ではないように思います。また、何をすれば相手が困るか、わかるようなら苦労はしません。(喜ばせようとして失敗することはよくある)
そして、相手が困っていてもべつに嬉しくない。だれにせよ、喜んでいたらよかったねと思います。悪い目にあっていたらちょっとだけ同情します。できれば、視界に入る人はハッピーでいてくれたほうが、わたしの心の平和は保たれやすいです。
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ASDの人の多くは、悪意なんて高級なものを持つことができない
というのは、だから許してくれという意味ではありません。
たとえば交通事故。
交通事故を起こしたくて運転している人はいません。しかし現実に事故は起きる。事故を起こした側が、謝ったりつぐなったりしますよね。当然です。
悪意はぜんぜんないとはいっても、悪い事態やダメージを引き起こすことは残念ながらしばしばあります。これについては、事態が判明し次第謝ったりつぐなったり次回の予防策を講じたりするのが当然であり、悪意がないからといってそれらのプロセスを省略していいとはまったく思いません。許してくれとも思いません。
とはいえ、です。
たとえば上の交通事故の場合。
悪意をもって、わざわざ相手にけがをさせようと思って運転した
と責められたとします。
そんなつもりはまったくないとして、この「悪意」のぶんも、責められて当然、つぐなって当然、なのでしょうか。
言いたいのはこれです。
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本人に悪意(相手にダメージを与えようという意思)があるかないかは関係ない、悪意が想定されればそのぶんもつぐなうべきだ という考え方もあろうかと思います。
この場合、
悪意の有無は他人が決める
ということになりますね。
そうなのですか? わたしにはわかりません。
そうだとすると、
わたしがASDの特性のため悪意に気づかなかったとして
そこに存在していた(らしい)悪意は存在していなかったのでしょうか。
わたしをわざわざ傷つけようとして何か言ったりやったりしたとして、わたしがその意図に気づかずにいたら、その悪意は存在しなかったことになるのでしょうか。
誰かがわたしを殴ったとして、わたしが、ひょっとしてなにか理由があり、わたしは殴られて当然なのかなと首を傾げた場合、そこに悪意はなかった、ということになるのでしょうか。
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被害を受けた人ではなく
「常識」が悪意の有無を決定する
という考え方もありそうですね。
もしそうであれば上記の、殴った件は、悪意が想定されそうです。
この場合、わたしは、「悪意が想定される状況」を学ぶ必要があります。というのも、わたしは、悪意を検出するのが非常に苦手だからです。
検出できない悪意を、他人が検出するかもしれないという目で探してそれを防ぐというのは、言うは易く行うは難し、です。
定型発達の人にとってそれが可能なのは、定型発達の人には悪意が感じられるからだと思います。どうでしょう。わたしにとって難しい、というのは、「甘え」でしょうか。アンテナが備わっていないというのは理由にはならない、でしょうか。だとすると、ずいぶん厳しい世界ですね。
じっさいには、そういう状況については学びつつあります。検出機能が弱いためフィードバックがかかりづらく学習として効率が悪いことこの上ないのですけれども、それでも、以前よりは少しマシな気はします。少なくとも、数年前に受けたひどいパワハラが、パワハラであるということくらいは理解できました。
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わたしの希望としては、わたしが迷惑をかけたぶんは当然つぐなったり謝ったりする、これは当然として、ただ、そこに悪意を読み込んで追加で責めるられるのはつらいから、悪意はないということを理解してもらいたい、それだけです。
どうでしょう。望み過ぎかしら。ほんとうにほんとうに、わからないです。