アスペが「治る」のかどうか、についての私論。

@aki7ito
 さんとのTwitter上で
@aki7ito さんとのTwitter上でのやりとりをもとにしています。

アスペが(自閉症スペクトラムASDや他の発達障害も含めて)治ることはあるのか、という問いについて、です。いろんなひとがいろんな答えを持っていることと思います。以下、「わたしの」考えです。精神科を代表しているわけではありません。

以下、「治る」=「寛解」と表現することにします。

 

…本論の前に、「寛解」の定義から。

寛解」は「完治」とはちょっと違います。完治というのは、「病気が消えてなくなった、つまり、再発は絶対しない(病気にかかったことのない人が初めてかかるのと同じ確率でしか発症しない)」という意味です。これに対して寛解は、「症状はもうない、困ってはいない。しかし、本質的に病気が消えてなくなったという保証はなく、病気にかかったことがない人よりは再び病気にかかる(=再発)の危険が高い」という意味になります。

アスペが消えてなくなるというのがほんとうに可能かどうかはわからないので、そこは保留します、という意味で、「寛解」ということばを使うことにします。

 

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「完治」というより「寛解」。イメージ的には、脚を切断した人が義足の扱いをトレーニングしたとして、歩くことはパーフェクトにできるようになっても、脚が生えてくるわけではない、という感じかなととらえています。

 

さて本題。

 

「症状がない」と言ったんですけどね。誰にとって「症状がない」のかが次の問題です。アスペの「症状」あるいは「困りごと」については、

・本人がしんどい

・周りが困る

・誰も困りはしないけど周りから見て「変」

の3つの側面があるように思うのです。

 

わたしは「あずさのアスペは治っている」「非常に軽い」と言われることがときどきあります。なんとなく違和感があるのは、「周りは困らない」「たいして変には思われない」とはいっても、「本人がしんどい」からかなと考えています。

 

とはいっても、「本人がしんどい」とはいえ、トラブルはかなり減りました。定型の人も、まったくトラブルを起こさずに日常を送っているわけではないことを考えると、「周りはたいして困らない」「ふるまいに関しては変とはいえない」というレベルには達したのかもしれません。少なくとも、同僚とか知り合いとの間では、アスペ由来のトラブルは非常に少ないです。(身内にはいろいろ迷惑をかけたり世話になったりしています、ちなみに)

 

これを、「寛解」であるとすれば「寛解」は可能であると思います。

これは「寛解」ではないとすれば、「寛解」は現実問題、非常に難しいと思います。

 

というのも…

これはわたしの例ですけれども、わたしは、定型の人たちが「なんとなく」「自然に」こなしていることを、頭の中でフローチャートみたいなものを作って機械的に処理しているからです。午前中知っている人に会えばあいさつをする、Aさんであれば会釈するだけ、Bさんであれば声を掛ける、Cさんには手を振る、AさんとBさんがペアであれば声を掛ける、Cさんが含まれていれば手を振る、などなど。かなり細分化されています。これを極限まで改良して、改良するためのプログラムそのものも洗練していけば、周りを困らせることも、周りに「あれはなんだ」と思われることも、減っていくと思うのです。というか減ります。

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しかし。

わたしの脳の負担は増える一方です。よって時々フリーズします。フリーズしそうになったら引きこもる、というのもプログラムに含まれています。その自己モニタリングもプログラムですね。

妙にコンピュータの例えがしっくりきてしまうのも、アスペっぽいと思ったりします。

感覚過敏の問題は、わたしは聴覚過敏がメインなので、ノイズキャンセリングイヤホンでかなり解決しました。しかしこれだって、それなりの値段はしますし、「イヤホンなんてしていていいんだろうか」という場面も、たまにはあります。許可を取らねばならない場合も多いです。小さい声は聞き取りづらくもなったりします。

 

そんな感じのわたしの状況を、「寛解(に近い)」ととらえるかどうか。「社会的」寛解と呼びたい気もします。どうでしょうね。