それは「できる」のか否か。(多様性を受け容れる、みたいなことのつづき)

さて、多様性を受けいれる、みたいなこと。じつはおたがいさまだったりします。 - 精神科医的ひとりごと(仮) のつづきです。できる・できない、っていうんですけどね。それって…? というお話です。

 

たとえば、わたし、高校一年生のとき、体育祭のマスゲームに参加しました。誰もが予想するとおり、いつまでたっても覚えられない。さすがにこのときは、諸先輩方も「あずさは真面目にやっている」ことだけはわかってくれました。とはいえ、正規の練習以外に補習を受けて、家でも練習して、誇張でもなんでもなく、食事/入浴/睡眠 以外の時間はすべて練習にあてて、なんとかギリギリ体育祭に間に合わせたのでした。

 

これ、「やればできる」に入れるべきなんでしょうか。これね、一生懸命勉強したと言えば聞こえはいいですけど、夏休み(および一学期前半)の間、わたし、まったく勉強しなかったんです。夏休み明けに鉛筆の持ち方を忘れていたレベルで。

このように、たしかに、理論的には可能ではある、しかし、他の人の10000倍の努力が必要だというとき、それを「できる」と考えるかどうかは時と場合と本人の事情/希望によると考えられます。理論的に可能だからと言って強制するのも、そのための犠牲を考えると現実的かどうか。マスゲームの件は、わたしの希望でしたしまだ高一でしたから、まだなんとかなりましたけど…

 

できる・できない界隈にはもう一つ問題があります。

自分があっさりできたことって、意識から抜け落ちやすいです。その一方、できなかったことって強く印象に残ります。漢字はすらすら書けるようになったから漢字のことは思い出さないけど、逆上がりがいつまでたってもできなかったことは忘れられない、みたいな感じです。

この結果何が起こるかというと、「逆上がりができない自分で【さえ】この漢字テストは満点なのだから、逆上がりが難なくできる他の人たちは、漢字テストは全員満点のはずだ」 と信じることになるわけです。逆上がりと漢字テストは極端な例ですけど、これに似たことはしばしば起こります。自己評価が低い場合、もっと起こりやすくなります。

で、これ、関係ないですよね。逆上がりができて漢字テストが20点の子も、いることでしょう。このとき、「キミは逆上がりができるのだから、逆上がりができないわたしでさえ満点がとれるかんたんな漢字テストは、当然満点をとれるはずだ」とか言ったら、漢字テスト20点の子は困ってしまいますよね。漢字テストが20点の件ですでに困っているので、反論しようというほど頭が回らない可能性も高いです。

これ、ありがちトラブルです。自分がかんたんにできることも、他人が簡単にできるとは限らない。アスペに限らず、ですよ。自分も他人も責めないために、できれば心の隅に置いておいてほしいかな、と、わたしは思います。