空気の成立と、あずさがその空気を扱いかねる理由。

空気の話、続きます。

前回、空気の成立について仮説を提示しました。この仮説にもとづき、あずさが「なぜ」空気を読めないのかという分析をしてみます。アスペ全員とは限りません。あずさ自身のことです。関連記事↓

あずさのこと。泣いている子どもとサリー・アンの課題。 - 精神科医的ひとりごと(仮)

多数派の行動は、おたがい予測できるからおたがい安心できる、ということなのかもしれない。 - 精神科医的ひとりごと(仮)

 

子どもが泣いていたとして、

  • 泣いている子が次の子どもの行動を決定して、
  • 泣いている子と次の子どもが、さらに次の子どもの行動を決定する
  • 次の子どもとその次の子どもが、泣いている子の行動を決定する

そして全員の行動が決定=全員の行動は予測可能となります。安心ですよね。居心地がいい。その中に、「他の子の行動から予測される・期待される行動をとることができない」あずさが入り込んで予想外の行動をとると、他の子どもたちは居心地の悪い思いをするわけです。

 

あずさが「他の子の行動から予測される・期待される行動をとることができない」ことについて、一つの理由は、泣いている子どもがいたとして、「何かしなければ」という衝動を感じられないということでした。もう一つの理由は、状況と行動をセットで学習することができないということでした。

 

なぜ学習できないんだろう、というのが問題です。ことばでインストールすることはできます。現にいま、わたし自身はそうやって対処しています。しかしこれは、多数派の回路とは明らかに違うのです。

ひとつは、場合分けが難しい=この場面はあの場面と同じであるあるいは違うという判断ができないため、前回学習したふるまいを活かすことが難しいという問題です。抽象概念を扱うのは得意なのに、です。状況から「人間のふるまい」だけを取り出すという過程でつまづいている気もします。極論すれば、季節も時刻もカウントしてしまう。これではたぶん、学習ははかどりません。

もう一つは、状況を構成する他人の行動のうちどれがポイントなのか抽出できないということかしら。たとえばわたしは、視線の向かう先=その人の興味関心の対象が存在する方向 ということに、ほんとうに最近気がつきました。それまでよくわかってなかったわけです。目の動きはほんとうに見えていないあるいは見ていない可能性があります。わたしの場合、注意力の問題もあるでしょうし、それが視線だと気づく能力も低いですし、音声に集中するとそもそも相手のほうを見ていないことが多いです。わたしだけでしょうか?

 

非言語的メッセージの解読が難しいというよりもうちょっと根本的な問題のように思えてならないのです。問いそのものが存在しない、他人が自分の話に興味があるかどうかわからないというよりも、他人が自分の話に興味があるかどうかなんて考えたこともない、というかそれ何? みたいな感じかと。

というかほとんどのこどもたちが、他人の行動からやすやすとポイントを抽出し適切な場面にそれを応用している、しかもそれが厳密な手続きによるわけではなくて何かの直感に基づいている、ということがほんとうに驚異的な話に思えるのです。そのうえ、大多数の子どもたちにとってはこれはアタリマエのことで、「頭がいい」という定義には当てはまらないのですよね。わたし、この件に関して、「世の中、わたしよりずっとずっとずっと頭のいいひとばっかりだ」と、長い間思っていたのですけれど…