アスペという診断、おまけ。診断というものについての精神科医の本音あるいは戦略。
終わりって言ったんですけどね。精神科医にとっての「診断」の意味について、わたしの考えを述べておきます。これは、アスペに限らず、です。
診断および告知って、治療行為そのものなんですよ。
少し? 説明しますね。
- 診断する
- 診断結果を本人に告げる
- 診断結果を周囲の人に告げる
は、治療行為そのものであるということです。治療行為そのものであるどころか、場合によってはこれが一連の治療行為のなかで最重要なんてこともあります。
まず、診断そのもの。診断のための質問がすでに治療の一環であることがあります。たとえば、感覚過敏についてたずねるということは、感覚過敏というもの(感覚過敏という名前を使わないにしても、たとえば音が非常に気になって生活に支障が出ること)が存在し、医者がその件についてたずねる程度には一般的だ、というメッセージでもありますよね。「そうか、自分が掃除機から逃げていたのは、世界中で自分だけが特殊ということではなかったんだ」という気づきにはしばしば、それだけで気が楽になるという側面があるわけです。(掃除機から逃げていたのはわたしのことです)「たいへんだったよね」とねぎらうチャンスでもあります。
診断がついたとして、いつ告げるかも問題です。今日告げるか次回にするか、学校にもうちょっと通って、学校の先生からの情報が両親に伝わってから補足説明の形をとるか、心理士さんから説明してもらってその後にするか、などなど。
時間をとって全部まとめて話すほうがいいのか、全部いっぺんに話すと負荷が大きすぎるから診察のたびに少しずつ話すか、というのも考えどころです。記憶力・理解力の問題だけでなく、感情的な負荷の問題もあります。
確定診断はできないな、でもアスペの傾向はあるよね、という結論に至ったとして、それをどのように伝えるかも、治療行為です。確定診断がついたとしても、「アスペです」と前置きなしに言うのが最善とは限りません。アスペの可能性が高くでも確定診断に至らないというケースで、「たぶんアスペです」という表現はしないほうがいいこともあります。たぶん、が「ごまかしだ!」と感じてしまう人もいるわけです。
たとえば、「アスペの特徴があるけど、絶対アスペだというほどの検査結果ではないです。で、検査からわかる得意不得意というのはこれこれで、それらのうちこれとこれはアスペと共通していて、ということは本人のやる気とか親の育て方とかのせいではないという可能性が高いわけですよ」とか。……あずさは「くどい」と評判なのでこんな言い方をすることが多いです。もうちょっと洗練のしようはありそうな気がします。
上記の例では、
- アスペという確定診断はしづらい
- でもアスペの特徴はあるよね
- 診断はともかくアスペと共通する問題で困っているよね
- それらの問題については、本人・周囲の責任じゃないことがほぼ明らかです
- なので自分を責めるのはやめよう
- 得意なことはこれこれでして
- (じゃあ、これから、得意なことを伸ばしつつ不得意分野をどうするか検討しましょう)
なんてメッセージが含まれています。これらをまとめて告げるチャンスでもあるわけです。当然、相手の知的レベルに合わせて話す必要があります。わかりやすく、は当然として、非常に頭のいい人にあまりにかみくだいて説明すると、それはそれで失礼だったりします。とくに、若い人には、「バカにされた!!」とか思われがちなので、ちょっと難しいことばをはさむ、くらいがちょうどいいことが多いです。
口頭説明だけにするかその場で図や文章を書きながら説明するかそれとも最初から本人(家族)向けプリントを作っておいてお渡しするか、というのも考えどころです。個人的にはその場で書く・描くことが非常に多いです。ただしこれは、わたしが、「書字がものすごく速い」ことに依拠しています。
…精神科医全員じゃないと思いますけれども、少なくともわたしの中では、診断および診断の告知ってこんな感じです。診断をつける・告げるって、治療行為そのものなんですよ。