アスペについての精神病理9。自分はどこにいるのか、わかってる?

以前、わたしには「他人の視線を感知する能力」が低く、その結果、他人の視線の集大成である「自分自身を観察する自分」がいない、というお話をしました。その結果、空気が読めないというストーリーでした。

アスペについての精神病理2。空気が読めないことの分析。あずさ自身を症例として。 - 精神科医的ひとりごと(仮)

アスペについての精神病理3。ありがちやりとりが苦手なことと、アスペ的誠実さについて。 - 精神科医的ひとりごと(仮)

 

さて。他人の視線の集大成である「自分自身を観察する自分」について、もう少し考えます。他人の視線の先には、自分がいますね。あたりまえです。自分および微妙に自分?の範囲を、自分ワールドとします。他人の視線で、自分ワールドの範囲がなんとなくわかります。自分と自分以外の境界ということもあります。

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これはつまり、現在自分のいる空間のなかの、自分ワールドの位置がわかるということです。

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というわけで、集大成である「自分自身を観察する自分」には、今いる空間の中で自分がどこにいるか、わかっています。自分を中心に世界を把握する、ともいえます。

 

さて。あずさの場合どうなるか。あずさの場合、視線を感じる力が限りなく弱いです。

その結果、自分のいる空間を外からながめている感じになります。外から世界を把握する、と言ってもいいのではないかと思います。

このへん、わたし自身が多数派の感じ方ができないので想像なのがきついところです。多数派は「自分との距離」を重視するのに対して、わたしは「物と物との距離」しかわからないという感じでしょうか。

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物と物との距離、ということは、見られている対象にはあずさは含まれていませんよね。ということは、あずさがいるはずの空間の、どこにいるのかがわからないということです。

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これね、何につながるかって、人間関係につながるようなのです。

人間関係の基礎の基礎って、距離でしょう。親しければ近づくし、そうでなければ少し距離をとる。敵対していれば離れるでしょう。この距離を正確に測るには、自分がどこにいてどっちを向いているのかということがわかっていなければなりません。

ある本には、これが方向音痴の理由だとも書いてありました。ちなみにわたしは自分ほどひどい人を見たことがないレベルの方向音痴です。自分の職場で迷わなくなるまでに3ヶ月以上かかったりします。

 

これね、こう書いたら簡単なんですけど、ずっとずっと理解できなくって、3日あるいはそれ以上ずっと考えてようやくわかったんですよね。あまりにさらっと書いてしまったものですから、ちょっと苦労をアピールしたくなりました。