アスペについての精神病理7。他人のいない世界というのはどういうこと?

アスペはものと人との区別がついていないとか、他人を他人と思っていない(傍若無人ってことですね)とか、いろいろさんざんな言われ方をすることがあります。たしかにわたしはドアにぶつかったらドアに謝ったりしますけれども、そこまで言われる筋合いはない気がするわけです。

で、ここでいう「他人」というのは一体何なんだと何冊か専門書を読んだ結果、他人がいるとかいないとかいうのは、他人の思考や感情はどうやったってわからないのだ、という事実をしみじみ納得しているかどうか、ということとイコールであるらしい、ということがわかりました。これ、ひっくり返すことができるらしいんですね。なにをどうやったってわからないのが他人なのだそうです。

 

他人のことはどうやったってわからない、としみじみあきらめる過程とは、というのが次の問題になります。どうもこれ、自分と他人を区別するという問題のようなのです。いくらわたしがアスペだからと言って、自分と他人は区別しているつもりです、と言いたいところなんですけれど、たしかにときどき、「自分と他人をごっちゃにするな」「自分ができるからと言って他人もできると思うな」などと言われます。

 

自分と他人との境界は、他人の視線を感じることでつくられるのだそうです。

f:id:asph29:20180522203239p:plain

見ている人と見られている自分は、やっぱり違う人ですよね。そりゃそうなんですけど。他人の視線を感じる力が弱いらしいアスペは、この「見ている人と見られている自分は違う人」感覚がなかなか身につかないらしいのです。

参考:

アスペについての精神病理。頭の整理をかねて。あずさ自身を症例として。 - 精神科医的ひとりごと(仮)

 

さて、多数派にはもう一つ、かなり幼いうちから発達する「超能力」があります。(少なくともわたしから見たら超能力です)

f:id:asph29:20180522203548p:plain

なんと、他人の感情を直感的に感じ取り、他人の行動を直感的に予測することができるらしいのです。多数派、すごすぎ。感情および行動をあらかじめ感じ取っているからこそ、他人の行動によってあわてなくて済むというわけです。予測が外れることはもちろんあるわけですけれども、それにしても、予測があるのとないのとは大違いだと、わたしは想像しています。

さて。この「直感」、現実の他人と微妙にずれるらしいのです。つねに100%正確に直感できたら、それはすでに他人じゃないともいえます。そして、この直感(予測)と現実が微妙にずれることから、多数派のひとびとは「そうか、他人の思考や感情は、最終的にはどうやったってはかりしれないものなのだなあ」と、しみじみ納得するらしいのです。

 

さて、そういう感慨にいたらないアスペ(というかあずさ)はどうなるか。本当に絶対にわからない他人というものがあずさワールドには存在しないということになります。

ちなみに、哲学業界では、ほんとうに絶対にわからないということを、他人の定義とすることもあるようです。そう定義してしまうと、あずさワールドには「他人」がいないということになってしまいます。ちょっとその表現は避けたいです…

他人がいないとか消えたとかというよりは、他人の行動も含めて、何もかも、つきつめれば自分が納得いく形で説明がつくはずだ、という確信を持っている、というのが実感には即しています。

f:id:asph29:20180522204202p:plain

 

さて。自然は科学でかなり説明がつきます。たまにわからないことがあるとしても、いわゆる自然法則にのっとっているのだろうと考えて安心していることができます。文字化されたルールは、読めばわかります。

問題は空気・明文化されない規範・その場のルールなど、何かしら決まっているようだけどどうもあずさには感知できないもの、です。仕方ないので明文化を要求したり試みたりすることがしばしばあります。もちろん、見えない・気付かないままということもあります。

また、他人が存在していることはさすがに認識しているつもりなのですけれども、自分と他人は違う人であり、他人のことが永遠に絶対に理解できない、ということはあんまりわかってない気がしてきました。

f:id:asph29:20180522204859p:plain

 

この、自分と他人が永遠にわかりあえないということがいまいちわかっていない状態というのはつまり、他人を自分ワールドの一員にしてしまっているということのようです。自分がすみずみまで理解できる(はずの)自分ワールド、ですね。でもそうやって自分ワールドに組み込んでしまった他人は、厳密には他人ではない。そして、わたしにとっては、この世のすべてはいずれは自分で納得できるように説明できるはずのものなので、説明できないという事態が居心地悪いのです。

 

あずさにとって厳密な意味での他人がいない、というのは、「自閉」の意味にとても近いような気がしています。