多数派の行動は、おたがい予測できるからおたがい安心できる、ということなのかもしれない。
空気シリーズ? 続きます。
これまでは、泣いている子どもとあずさ、この2人が登場人物でした。
あずさのこと。空気の正体とあずさのつまづきポイント。仮説です。 - 精神科医的ひとりごと(仮)
前回の結論は、大多数の人々に関して
- 行動しなければならない、と感じる状況が決まっている
- その際に何をするかは文化と状況と行動をセットで学習する
という推測でした。言い方を変えると、いつどのようにふるまうかをセットで学習しているということですね。状況によって適切な行動を(たぶん直感的に)とることができる。これが空気を形成するのではないでしょうか。
これに対してあずさは、
- 泣いている子がいても何かをしなければならないという衝動は感じない
- 泣いている子に対して何をすればいいかを、状況からはじき出すことはできない
よって、空気を読んで適切な行動をとることは不可能です。
もうちょっというと、
- 泣いている子が次の子どもの行動を決定して、
- 泣いている子と次の子どもが、さらに次の子どもの行動を決定する
- 次の子どもとその次の子どもが、泣いている子の行動を決定する
と考えられます。
泣いている子ども、をスタートとして、最終的には全員の行動が決まってしまうわけです。そしてこれは、ぐるぐる回って強化されることが予想されます。また、誰が泣いていようと誰がやって来ようと、だいたい同じようなことが起こるでしょう。ということは、「この状況においては、自分はこのようにふるまうべきなのだ」という学習も可能であると考えられます。
この中に「他の子の行動から予測される・期待される行動をとることができない」あずさが入り込むと、
- 泣いている子がいるけどあずさは関係ない(はたから見れば謎の)行動をとっている
- 泣いている子と謎の行動をとっているあずさはめったにない組み合わせ(状況)を形成
- さらに次の子どもは、「泣いている子ともう一人誰かがいる場合」に起きているはずの状況が起きていないため、このような場合に当然取るつもりの行動が不適切かもしれないと感じ、普段使っているパターンが使えないため戸惑う
これが、空気が読めないあずさが場の空気を乱した、という事態の説明になりましょうか。「この場合はこのように行動する」というパターンが共有されておりそこで起こることがだいたい予測可能である集団において、そのパターンを共有しないあずさが登場すると普段のシナリオが使えなくなる、ということです。そして、そこにいる多数派の子どもたちは居心地が悪くなる。とまどう。
…そんな感じかなと思います。もうちょっと洗練できそうな気もします。