あずさのこと。泣いている子どもとサリー・アンの課題。
人前で泣いてはならない、と教わっていた、と前の記事で書きました。
あずさのこと。人前で泣いてはならない、という教えについて。 - 精神科医的ひとりごと(仮)
- 父親が泣いている子どもなり女性なりを目にしたときに、それが単に泣いているのか他人を操作する意図で泣いているのか区別がつかなかった
- 大多数の子どもは、泣いている子どもを目にしたとき、まず感情が大きく揺さぶられた上で、次の行動を選ぶ
並べてみたとき考えられるのは、大多数の子どもは「何かしなければ」という思いに駆られるのだろうということです。かならずしも親切だという意味ではありません。「この機会にいじわるしてやろう」も含めて、です。もうちょっというと、子どもが泣いているというのは、何かの行動をとるようにというメッセージとして働いています。何もしない、も行動の一種です。
これに対してわたしは、泣いている子がいる、以上!!だったわけです。子どもが泣いているという現象がある/状況である → 放置する あるいは 声を掛ける というのは、いってみればプログラミングにおけるif関数であり、わたしは何のメッセージも受け取っていません。チャイムが鳴った → 教室に入る と一緒です。テレビや本の中のできごとと一緒、というほうが、事実に即しているかもしれません。
それをふまえて「その子だったらどうしてほしいの」というのは、多数派の子どもが相手であるということを前提とした場合、
誰かが泣いているということは、キミはなにか行動を取らねばならない、というメッセージを受け取っているだろう。その行動を選ぶにあたっては、自分だったらどうしてほしいかということを基準にしなさい。
という意味であったと考えられます。チャイムが鳴ったら教室に入りましょう、とはニュアンスが違いませんか? (もうちょっと言語化を試みるつもりです)
これから思い出したのは、サリー・アンの課題です。「サリーはかごの中にボールを入れました。サリーが部屋を出ていったあと、アンはボールを箱の中に移しました。部屋に戻ってきたサリーはどこを探すでしょう?」というものです。ちなみにわたし、20代後半のとき、これ、見事に間違いました。当時は、論理力が足りないのかと深く反省したものです。論理力の問題ではなかったとあとで気がつきました。
ここで、多くの子どもたちは、「アンはいじわるだね」とか、「アンはどうしてそんなことをしたんだろう」という感想を持つらしいのです。この感想の有無のほうが、正解不正解よりもアスペの特徴を反映すると書いてある本もあります。なんてこった!
他人の行動に意図やメッセージを感じる、内容はともかく存在を仮定する
というのが、わたしと多数派の大きな違いのように思うのです。アスペ一般に拡大していいかどうかはまだ検討中です。