アスペ的論理/道徳その6。「みんな」という例題。

「みんな」ってことばがありますね。これについて考えてみたいと思います。

個人的には、わりと雑なことばだと思うのです。雑、というのはつまり、意味がぼやけているということですね。アスペの厳密性となかなか相容れないので居心地悪い、ということかもしれません。こういう「なんとなくひっかかる」ことばをチェックしておくと、論理の組み立てがゆらぎづらくなるのでおすすめです。

居心地悪さについて少し考察してみます。

 

問題点その1。みんなって、誰? 

「◯◯買ってよ、みんな持ってるし」「みんなって誰?」わりとありがちなやりとりだと思います。この『誰』をもうちょっとつきつめると、「みんな」って、大多数みたいに聞こえるけど、ほんとうに大多数?ということかなと思います。「みんなそう思ってる」「自分だけみんなと違う」「みんなに迷惑をかけないようにしましょう」みんなっていうけど、ひょっとして、対象集団の半分以下だという可能性とかあったりしません?数えてないというのは、そういう可能性も否定できないってことですよね。

 

問題点その2。で、なんのために「みんな」ということばを持ち出すんだろう?

上記のとおり、みんな、って、誰のことなのかもわからないし、何人中何人なのかも不明です。百歩譲って、身近な数名から推測したということにしましょうか。しかし、です。そこで「みんな」と言わねばならない理由はあるのかしら。上記のとおり、「ろくろく数えていないのではないか」「そもそも対象集団を定義しているのかどうかさえあやしい」と受け取られかねないリスクをおかしてなお「みんな」って言うって、「ほんとうは対象集団も当てはまる数も割合も全部、確かめてはいないけどわたしはそう信じたい」という期待・希望を、あたかもほんとうに(ほぼ)全員であるかのようにすり替えているだけなのでは、と思えて仕方ないのです。だまそうっていうよりは、自分自身気付いていないケースのほうが多いかしら。すり替えかなとか事態が把握できてないのかなとか疑われるのは不名誉なので、わたしはなるべく使わないようにしています。

 

問題点その3。「みんな」が文字通り「みんな」だったとして、だから何? 

実際には数えていたとしましょうか。40人中35人が、そのおもちゃを持っている、ということが判明しているとしましょう。しかし、35人が持っているから自分もそのおもちゃ(など)を持つべきなのかどうかって、じつは全然、自明でもなんでもありませんよね。必要なものは、誰も持ってなくてもやっぱり必要だし、要らないものは他の人が全員持っていても要らない。みんながそう思っているからといって、自分もそう思わなければならない、なんてわけはない。よって、「みんな」という言葉を持ち出すこと自体は(あんまり賢そうに見えないということ以外は)別にかまわないけど、「みんな」を根拠に他人の行動を変えようとするのはちょっと違うかな、と思うわけです。

 

長々と書いたんですけどね。要するに、「みんな」ってぼんやりしたことばだから、使ったとたんに文章全体がぼんやりしてしまう可能性が高いです、ってことです。ぼんやりしていてどっちにもとれることばは、そのときどきで自分の都合のいいように解釈してしまい最終的にはきちんとした考察のじゃまになりますので(他人への圧力に使うのは論外ね)、きちんと定義できることばを使うのが、論理の前提かなと思うのです。そうしてきっちり組み上がった論理は、アスペにとってはずいぶん居心地のよいものになると思います。