アスペ的論理/道徳その2。論理的かつ優しい?ってこと。
哲学とか道徳とかの前に、ちょっと足場を固めましょうか。論理はアスペの武器だと思います。いまのところ論理になじんでいないひとも、論理となかよくできる可能性はかなり高いです。ぜんぜんわからなかったら、それはわたしの日本語の修行が足らないせいなのであんまり気にしないでくださいね。
さて、論理学およびそこから演繹(応用)できることのなかで、たぶんかなりだいじなことについてお話しします。
あずさは女性である。→女性なのです。これ、前提ね。
女性は全員あずさである。→そんなわけないですね。あずさ以外の女性はたくさんいます。
(前後あるいは原因と結果をひっくり返しました。これを、専門用語で「逆」といいます。)
「逆」って、ほんとうのこともあるけど、そうじゃないことも多いんですよ。
これ、論理学のわりと基本です。何を当たり前のことを?そうなんですけどね。
ちょっと内容を変えてみましょう。パターンは同じです。
勉強をさぼるとテストは悪い点で返ってくる。たぶん。
テストが悪い点であるということは、勉強をさぼったということだ。
(勉強してもうまくいかないことってあるよね?)
だめなやつは周りから責められる。
周りから責められるということはわたし(あいつ)はだめなやつだ。
(誤解かも?たんに気に食わないだけだったら?いじめとかもあるよね?)
よのなか、ほんとしばしばこれってごっちゃになってるのです。とくにね、自分あるいは他人を責めたり責められたりするときに、この「逆」が「当然」ほんとうだという思い込みが働いていること、すごく多いのです。ほんとに?って立ち止まってみると、自分や他人を責めずにすむことが多いので、わりとおすすめです。
論理的ってこういうことでして。論理的=冷たいとかではぜんぜんないんです。論理的なほうがやさしく(って、意味のくみ取りづらいことばですね。いまのところ漠然とさせておきましょうか)なれることって、けっこうあるんですよ。